2022-02-25 のメモ
辞書も人間が作るものである以上、(結果的には)作っている人の「内省」をもとに作られることになります。作っている人の「心的辞書」を反映したものになることはむしろ当然といっていいでしょう。それだからこそ、「辞書をよむ」ことがおもしろいわけです。
(コラムの内容と全然違うことにひっかかっていて申し訳ないのだけれど)
どんな文章(ニュースや論文、コラムやTwitterのような短いものですら)ある人物を通って出てきたことば、ことがらである。それなのについ「合っているか」「正しいのか」「エビデンスは」というようなことを言いがちだ。どんな文章もただその人そのもののあらわれなのだと思って見れば、しつこく突き回したりせずに済む。
さて、『色葉字類抄』は「いろは分類+意義分類」という配列形式を採っています。こういう辞書を使って、自身が探している語にたどりつくためには、まず探している語の発音によって、「いろは分類」のどこを探せばよいかを考え、次には自身が探している語が、『色葉字類抄』の「意義分類」のどこにありそうか、の見当をつける必要があります。
またまた「めんどくさい」となりそうですが、クイズだと思えばいいかもしれません。この語はどのカテゴリーに分類されているだろう、というクイズです。それは、『色葉字類抄』の編纂者のカテゴリーを探ることでもあります。過去の人の「脳内辞書」「心的辞書」を覗くような、そんなおもしろさがあります。
さらに、こんな風に↑考えればぴりぴりしたりせずに広い(包容力とさえいえるほどの)視野をもって相手を見ることができるかもしれない。
というところまで考えて、そうしたらやっぱり私が「ある日の日記」のようなものを「ある一日が主役」だと言っていることには矛盾が生じるかもしれないな。
結局は書いている人を見たいと思っている。
そうか、一日というのはただ独立したひとかたまりじゃなくて、人が見た経験の集積だという風に感じているのか。